ほくそうブログ

2012年6月11日

祝!はーとふるメッセ・オブ・ザ・イヤー2011W受賞!

40年前(昭和49年)の北総周辺。緑の大地遥か遠くに鹿島灘の水平線。茅葺き民家と田圃と畑。何て肥くせえ風景だこと。ここで50名の暮らしが創まった。何で暮らしを立てるか…。「百姓になるしかあんめーよ」。何の迷いもなかった。が、この人たちの多くは船橋のサラリーマンの子。過保護に育てられ土なんかいじったことのない子がほとんど。お借りした3反歩の畑、3畝の田も持て余した。が、野菜は種を蒔けば自力で育ってくれる。わが子を思うちちははは月に一度80㎞離れた船橋からわが子に会いに来た。畑仕事で泥だらけになったわが子が笑顔で迎えた。「そうか○○、こんなになっちまって情けない」。わが子の成長していく姿を切なく見つめながら。出来の善し悪しは別、菜っ葉をちちははは涙を流して買って帰っていくのだ。どんな仕事も同じこと。仕事の終わりは道具の片付け。汚れた”くわ”や”万が”を畑の脇の水路で洗う。最初は「へたくそ」で、洗ったことになっていなかったが、そのうち段々上手になって、泥一つついていない”くわ”。そうやって、どんどん腕を上げて下手な職員より余程染々とした”働くこと生きること”のこの人たちになっていった。全て出来れば、こんな”とこ”には”いない”のだから、読者諸氏はそこから引き算をしてもらいたいが、それは心が鍛えられプライド持った筋金入りの百姓衆の誕生に他ならない。近藤益雄はこの人たちのことを多くの言葉にした教育者であり詩人、そして何よりこの人達と共同生活実践者。彼の詩の中で巻頭”春あさき水にきて”(明治図書出版「近藤益雄」著作集より)が好きだ。あれから40年。今は職員が力をつけて見事な有機農業が売りの北総農耕班。この人たちも年取って白髪頭に禿頭。腰も曲がって年寄りのヨチヨチ歩き。が、その人たちが今も草取りに精出して支えて農耕班は成立している。今年3月3日。千葉県知事肝煎の障害者施設作品品評会(はーとふるメッセ・オブ・ザ・イヤー2011イン幕張)で、その農耕班の切り干し大根が見事優秀賞を射止めた。紙工芸班の和紙干支人形も奨励賞。「いかったなー」「はーいかったぺよ」「えんちょうにうめーもんねだるべーよ」「おら、おかきがいかっぺとおもう」「そんなけちなもん…」
(武井)
春あさき水にきて・・・近藤益雄
畑しごと おえたれば
この子らと
春あさき水に きて
くわを あらいぬ
われも 子らも
水のつめたさを いわず
ていねいに
土を おとしぬ

2012年6月8日

日本の原発全てが停止した。

水上勉の生まれ所在は福井県大飯町字岡田。彼はそのことをこう書いている。「私が生まれ育った若狭の生家は、村で乞食谷と呼ばれた谷の上にあった。人間は暮らせないところだということか、死体を埋めるさんまい谷のとば口にあり、谷の所有者で松宮林左衛門という素封家の薪小屋を借りて住居にしていた。…」(泥の花・河出出版)

読者諸氏は水上勉の小説の何処に惹かれるか。彼は小坊主修行からはじまって、30以上の職業を転々。人間社会の奥底を見つめ続けた作家。名もない庶民の希望と絶望、父母慕情、ただ切ないだけの人生が自分の生きざまと重なりながら語られていく。S36年”雁の寺”で直木賞。東京時代、池袋文芸座で見た”飢餓海峡”。主役の樽見京一郎役は三国連太郎。日本映画の白眉的作品。そんな彼は敗戦間近の昭和20年、生まれ在所の若狭の分教場で代用教員として働く。そのことを彼は”31年目の分教場”として著している。

「…孝ちゃんは、知恵おくれというだけで、他人にめいわくはかけなかった。めいわくといえば、うんこを時々もらすことぐらいだった。こんなことは低学年なら知恵おくれの子でなくてもやることだった。ただ、もう一つ困ったのは、なけなしの配給の画用紙をあたえて、課題の絵をかかせようとすると、孝ちゃんだけは、クレオンでまっ黒かまっ赤にしてしまって、わらっていたことだ。…そんな孝ちゃんが20年に入って急に頭角をあらわすようになった。それは、本校からの指示で、学業は休みにして、午前中から蕗と芋の葉をとって供出しろという命令だった。何貫目の割当てがなされたかはわすれたが、30人の子らを動員して、高野、今寺の野生の蕗を朝から千切って束にし、リヤカーで本校へ運ぶのが日課になった。この蕗は司令部のあった東舞鶴へおくられて兵隊の食料になったときいた。…戦争は敗け戦の兆しをみせていた。だが、それを教師がしゃべるわけにゆかなかった。それで、毎日が暗い気分だった。暗い気分を晴らすのは、一日、山を走りまわって子供らとあそぶことだった。…孝ちゃんは蕗とり上手だった。どういう勘が働くのか、ぼくらがもうそこにはないと思って断念していた谷へ入って、2時間も顔を見せないと思うと、なんと背中いっぱいに背負って汗だくでやってきた。これには参った。孝ちゃんの収穫した蕗は、30人の半分ぐらいあった。自慢するでもなく、にこにこしているだけだった。これが疎開の子らを励ます結果になった。知恵おくれの孝ちゃんでさえ、こんなにとるのだからサボッていたはずかしいという思いが子らに芽生えた。

ある日、ぼくたちは、今寺の部落からさらに北上して、大人でもあまりゆかない深い谷へ入り込んだ。…。夕方になった。点呼してみた。孝ちゃんの顔がなかった。心配になった。日も暮れかかっていた。孝ちゃんの姿をみた者はなかった。そこで手分けして、谷から谷の暗いところや危険な箇所へ声をあげてさがしにいった。「孝ちゃーん、孝ちゃーん。ええかげんにやめてあつまれやァー」。どこからも孝ちゃんは出てこなかった。山は暮れるのが早くて、なすび色になった。ぼくは青ざめた。岩場へ落ちでもしていたら大変だ。知恵おくれの子を、こんなふうに働かせていたことが、急にくやまれて、ぼくは眼先がまっ暗になった。「孝ちゃーん、孝ちゃーん」と子らとともに、それから30分ほどさがして歩いた。ある谷の奥だった。一人の男の子の声がした。「孝ちゃんいたぞォー、孝ちゃんいたぞォー」。ぼくは、子供らをつれてそっちへ走っていった。と、孝ちゃんが、母からつくってもらった大人用の背負い籠に、蕗の束をなんと自分の背丈ほど背負ってくるではないか、にこにこして。「孝ちゃんいたぞォー、孝ちゃんいたぞォー」。呼んでいた子は泣いていた。迎える子らも、声をあげて泣いた。あかね色の空の下で泣く子らは美しかった。…」

筆者は曾て、水上勉の生まれ所在を歩いたことがある。彼の言う”乞食谷”とはいったいどんなところだ。水上ファンとしては長いことそれが気になって仕方なかった。敦賀から小浜線に乗り換え若狭本郷駅下車。大飯町役場は小さな駅舎から程近い。駅から佐分利川沿いに歩いて2㎞。近畿地方は関東とは違う独特の茅葺屋根の民家が昔ながらの集落を形成している。岡田集落は背後に杉山を背負う。前は水田が佐分利川まで続く。出会った姉さ被りのおばさんが「つとむさんの家のあと」を教えてくれた。乞食谷から歩いて10分。勉さんが私財を投じて作った”若州一滴文庫”。館長は勉さんの兄さん。館内で偶然お会いし「兄さんによく似ておられますね」と声を掛けると「私が兄です」…。佐分利川に沿って田舎町に似付かわしくない立派な集合住宅群。大飯原発家族宿舎だ。高度経済成長の日本。60.80年代に次々と作られていった原発。大都会の繁栄を支えるため勉さんの生まれ在所は、”原発銀座”となっていった。勉さんは1970年以後日本の国は自然、風土の荒廃が顕著になり、人間の心の荒廃も進んだと書く。「日本人は、いまやこころを失った。狂人の国である。経済成長だけを呪文のようにとなえているうちに奈落に落ちたのだ」。”泥の花”の中で「私の生まれた若狭にある故障続きの放射能たれ流しと噂されている、高速原子炉ふけんもんじゅから送られる電気…」とある。原発のあり方に強いいらだちを隠さなかった勉さん。

04(平成16)年85才で逝去。
12(平成24)年5月5日、日本の原発全てが停止した。

2012年1月27日

共汗の作業場,記念樹の桜,涙坂の壁画-38年の日々 いざ,さらば-

3・11東日本大震災から既に半年以上の歳月。国を上げてその復興の道筋を模索するが、福島原発事故がそれに絡んで、なかなかその見通しを言葉に出来ない。しかし、時間だけは確実に明日を刻んで待ってはくれない。蕫人間の不幸は壁一つ?の諺のように被災地の皆さんは毎日が現実であり、毎日が立ち直っていくための闘い。千葉の私たちは被災地の皆さんと蕫何が出来るか?の心は継続しつつ、自分の抱えている難題に立ち向かう。
当園本館は小高い峠上に立地。眼下は水郷穀倉地帯の一面の緑。鹿島臨海工業地帯の高い煙突。その先の鹿島灘の水平線。大利根が一直線に絶景を横切る。
この土地にお世話になって38年。8畳の4人部屋、食堂と風呂と便所があるだけの簡素な本館。「十年経てば人も山も変わる」の十年一昔の四昔。「親亡き後のこの人たちの幸せ」「この地をこの人たちの生きる一つの理想郷に」。そんな夢を語りながらヨロヨロと頼りない足取りで何とか四昔を生き延びた。本館の横に木工作業場完成。(S49年6月)。手芸作業場完成は昭和53年。陶芸作業場は昭和49年築。その後何回も改修。天井の梁と囲炉裏が目を惹く居酒屋蕫礼舎?は施設らしくない建物と評判に。
山梨身延山久遠寺天然記念物の枝垂れ桜の孫桜が記念樹として植えられた。木工桜、荘内柿、椎木の木。本館周りは記念樹だらけ。それらの木々も四昔を生き延びて一抱えするような大木となり、この人たちの蕫喜び悲しみ汗と涙?を見守った。園に至る坂道をちちははは涙坂と呼ぶ。その涙坂の擁壁に壁画。この人たちとちちははと職員の交歓図。四昔、この坂道を往き来したこの人たち、職員、ちちはは、関係者…。何人かのこの人たちはその坂道を下って二度と戻ってくることはなかった。
23年11月、四昔の思い出の詰まったそれら建屋、記念樹、壁画…。そしてそれらはもう二度と見ることはできない…。
(武井)

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